【七刄会演義 1/17】序章「学外転落」
内科本道
外科外道
切らずに生かすが医者の道
切らずに死なすは医者の罪
切って生かすが外科の道
切って死なすは外科の恥
手術後にこの言葉を見るたびに、今日もまた罪も恥も感じることなく外科道を歩むものとしての責務を果たせたことに葦原はホッとする。時間は18時を過ぎている。ついさっき、麻酔から覚めた患者を病棟へと見送ったところだ。洗いざらしの術着に着替えて、PHSやペン、手帳がポケットに入っている白衣を羽織った。
「あれ、もう着替えてるのか」
更衣室に入ってきた同期同専の牛尾はそう言った。
「さっき終わったよ」
「……PDタテ2件でこの時間って、相変わらず、速すぎるんじゃないか」
「押切チーフの手にかかれば、こんなもんでしょう」
「……そうだな」
さっきまでの
「葦原たちが終わったんなら、早くに始まりそうだな」
「ああ。急いで行くよ」
今日手術の出番がなかった牛尾は、それだけ言って戻っていった。手術の終わり具合を確認したいのであれば院内PHSを鳴らせば済むはずだ。落ち着かないのだろう。葦原も同じだった。着替えの片付けを終えて、手術部を出た。
ついにこの日が来た。今日これから、来期人事が発表されるのだ。3年前の今頃、同じように医局人事が発表され、中部班同期同専3人のうち、葦原と牛尾が大学病院スタッフに選出され、もう1人は関連病院に
この3年間、葦原は七大中部班外科診療助手として、さっきの牛尾と切磋琢磨してきた。牛尾との競争は大学院時代を含めれば足かけ13年にもなる。自信がないとは言わない。外科の中で最難関とされる肝胆膵領域の専門外科医として、押切診療助教授、針生診療講師に次ぐ立ち位置で、いくつもの難手術をやり遂げてきた。たとえば先ほどやっていたPDなら、自分の執刀でも誰かの前立ちでも、最短手術時間、最少出血量そして最少術後合併症の記録を更新してきた。
手術室の中だけではない。外来・病棟診療もうまく回せていたと自負している。後輩への指導も熱心にやってきた。医学研究活動だけは恥ずかしながら、大学院卒業後はとんとご無沙汰になってしまったが、これは学術担当と手術担当を分担する当教室では珍しいことではなく、牛尾も同じだ。今後は違う。昇進かなって診療講師・同助教授になれば、手術診療を元にした臨床研究を主導することになる。データを産む側から、データを扱う側になる。肝胆膵腫瘍医学領域には課題が山積している。そこに「葦原手術」とか「葦原法」とか名のつく治療で画期的業績を残せたら……そうも夢想する。大学教員として医学部側の教育に携わることも増えてくるだろう。
手応えはある。地元の進学校である
外科医局に向かう。七州大学医学部附属病院外来診療棟と七州大学医学部研究棟3号館は連絡しているが、その間に重い金属製の防火扉がある。病院側からはノブをひねって押し開けるのだが、これが片手に余る重労働で、毎度両手で力を込めて押し通っている。大学の医者は医学部側の仕事(研究と教育)と附属病院側の仕事(診療)の掛け持ちで頻繁に往復するから、ここの自動扉化の請願運動もあったのだが、医学部側も附属病院側も相手方の理由ですぐにはできないというような回答でうやむやになってしまった。ちなみに、教職員の所属組織としての七州大学医学部は大学院重点化で七州大学大学院医学系研究科に、また七州大学医学部附属病院は他の七大関連2病院との統合により七州大学病院にそれぞれ改められて久しいのだが、七大内部のものはいずれも医学部と名のつく旧称でつい、呼んでしまう。
医学部研究棟3号館7階、外科医局
中には、既に来期の人事発表の対象となる医局員が集まっていた。中部班、血管班それぞれの診療助教授1名、診療講師1名、診療助手2名、診療医員3名、それから卒業の内定した大学院4年生が多数集まっている。葦原は挨拶を交わしながら、後ろから2列目の席丨丨すでに着席していた牛尾の前を通ってその横に丨丨座った。
診療スタッフ用のパイプ椅子席の前には教室最上級スタッフ指定席の円卓があり、その奥に演台がある。その後ろの壁には、所与の現場で全力を尽くすべしとの七刄会外科医の信条を表す「一所懸命」の書が掲げられている。
演台に向かって円卓左側には医学部講座講師らが、右側には医学部附属病院診療助教授らが着席している。左半円には矢代移植班
この12名が過日、「
「
パイプ椅子の席列でできた中通路の向こう側から寅田が身を乗り出して声をかけてきた。寅田は血管班診療助手で、葦原と同じくこれから、血管班同期同専の立川とどちらが大学病院に残留するかの審判を迎える。
「またまた丨丨ま、いい勝負だと思ってはいるけど」
葦原はそう答えはしたが、まんざらでもなかった。うぬぼれでなければ、みな日頃からこんな感じで自分のことを好評価ないしは高評価してくれていた。内心、葦原も牛尾をリードしているという実感はあった丨丨ガヤガヤとしていた場が急に静まり返った。
医局長が入ってきた。葦原ら列席の中通路を通り、円卓の横を回って、演台に立った。
「みな、業務の合間にご苦労。早速だが、先日決定した、大学院生、血管班それから中部班の来期人事について発表する。なお、総裁はご多忙のため、私が発表を代行する」
総裁。七刄会総裁。七大医学部外科学講座教授丨丨正式には、七州大学大学院医学系研究科外科病態学講座外科学分野教授丨丨その人のことだ。今春からはこの七大病院病院長への就任が決定している七大医学部の最有力者だ。慣例として、診療スタッフの人事発表に総裁は臨席されない。現場を信任し、一任されているからこそ、口出し、顔出しもされないのだ。
「今期の大学院卒業者の人事から発表する。矢島、古田、浅野をみやぎ県北医療センター石巻病院外科副主任医長に任じる。川岸、日野、明石をみやぎ県北医療センター古川病院外科副主任医長に任じる」
県北医療センターなどの七刄会関連
「根本、木皿、中村の3名を七州災害医療センター外科副主任医長に任じる」
七州災害医療センターは
「伊野、狩野、長野の3名をせんだい市民病院外科副主任医長に任じる」
彼らは葦原の所属する中部班配属となる。市民病院も
「つぎ、血管班。災害医療センター外科副主任医長の阿川、田鎖、吉城を七大病院診療医員に任じる」
「細田、奈良診療医員を七大病院診療助手に任じる。八木診療医員をみやぎ県北医療センター古川病院外科主任医長に任じる」
学外出向(副主任医長)3年と診療医員3年の業績評価によって、診療医員3名のうち2名が学内スタッフの診療助手として選出される。残った1名は学外の病院へと転出していく「Cキャリア」だ。3年前に血管班診療助手に採用されて大学病院に残れたのが、先ほど話しかけてきた寅田と、そのライバルで寅田の隣りに座っている立川であるが、間もなく彼らの命運が決まる丨丨。
「寅田診療助手を七大病院診療講師に任じる。立川診療助手を七州災害医療センター外科主任医長に任じる」
隣の寅田の表情を見かけて、その奥にいる立川の表情を見るのがためらわれて、葦原は視線を正面に戻したが、視野の外から驚きの気配が伝わってくることはなかった。寅田が日頃から本命視されていたからだろう。外科医はお互いの力量はわかる。学外に転出する立川は「Bキャリア」だ。
「堀田診療講師を七大病院診療助教授に任じる。荒若診療助教授を七州災害医療センター外科副部長に任じる」
診療講師は、3年の任期を務めた後に診療助教授に自動昇進する。そうして、専門班COOの大任を果たした後は
「つぎ、中部班。市民病院外科副主任医長の加山、星川、高峰の3名を七大病院診療医員に任じる」
ついに始まった。葦原の所属する中部班の中心人事の発表だ。
「また、和田、枡野の診療医員を七大病院診療助手に任じる。宍戸診療医員をみやぎ県北医療センター石巻病院外科主任医長に任じる」
会議室がわずかにどよめいた。この3名では、七大卒の和田と宍戸の残留が有力視されていた。暗黙の了解として、七刄会ではほとんどの場合で七大卒が昇進していくからで、枡野は七大卒ではないのだ丨丨と考えていた葦原は、医局長からの視線を受けていたことに気づいて、我に返った。次が自分たちの番だった。医局長は手元の書類に目を戻して、口を開いた。
「牛尾診療助手を七大病院診療講師に任じる。葦原診療助手をせんだい市民病院外科主任医長に任じる」
先ほどとは比べようもないどよめきが広がった。この大きなどよめきの主役が自分であると気づくのに葦原は数秒かかった。異口同音に発せられる「えっ?」という声は、葦原のものではなかった。一足先に学外転落が決まった宍戸すら、振り返って驚きの視線をこちらに向けている。そこでようやく、自分のノドから音が出てくるのに気づいた。
えっ丨丨?
「続けるぞ。針生診療講師を七大病院診療助教授に任じる。押切診療助教授をせんだい市民病院外科副部長に任じる。今般の決定については以上丨丨」
真田医局長が発表を終えると、ようやく会議室内は静まり返った。
「みな今後も一所懸命で頼む」
真田医局長は決まり文句で締め、頭を下げた。その言葉に医局員一同、返礼した。そうできなかった葦原だけ、「一所懸命」の文字を見つづけていた。
俺が負けたのか丨丨?
今般の人事内示は終わった。
医局長、講座スタッフ、そして診療スタッフ幹部らが退室していった。
葦原は立ち上がった。とりあえず、外に出ようと思った。隣の牛尾の背後を通るときに、肩に手を置いた丨丨いや、足元がふらついて、躰を支えるためにそうしてしまったのかも知れない。葦原は取り繕うように言った。
「術後患者のところに戻る。牛尾、あとは頼んだ」
牛尾雅史。七刄会医伯長。1990年北海道国立医科大卒、1996年七大院卒。中部班Aキャリア丨丨。
その時に牛尾がどう応えたのか聞き取れなかった。葦原が出ると、同期の立川や他の転落組なども続いた。牛尾や寅田ら学内残留組はそのまま残って、今後の診療について話し合う丨丨のかもしれない。
病棟に戻るつもりが、気づけば、医局の自室に向かっていた。そこまで来て、ここは中部班の控室だから、牛尾が戻ってきて鉢合わせするとまずいなと思って、病棟側に進んだ。躰が火照っているのに寒く感じる。足の感覚がないのにどこかに歩いている。
牛尾が診療講師、俺は学外転落……。
俺が、学外転落丨丨?
牛尾の肩に置いた手が、あの重い防火扉を押し開けたときのように、ジンジンと脈打つように感じられた。そこだけが自分の躰のように思えた。
(続)
©INOMATA FICTION 2019-2020
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