【七刄会演義 6/17】第2章 第1節「真夏のインフルエンザ」

2021年5月4日

 平成182006年4月丨丨。

 せんだい市民病院着任後、二度目の春。卒後臨床研修制度第2期生で、医師2年目を迎えた檜山が外科に選択ローテートで回ってきていた。貴重な外科志望者だ。医長トリオらに任せきりにせず、葦原ももっと目を配ることにした。それから、1年目には出身大学や志望科にかかわらず、積極的に外科への勧誘をアピールすることにした。歴史と伝統ある七刄会としてはしたない気もするが、いまや、外科志望者を座して待つ余裕はないのだ。

 その日の昼丨丨初期研修医入職オリエンテーションが終わって、ようやく各科に制度通算第3期生の1年目研修医が配属された。今日は上司の先生は出張や外来業務でいないので、外科医局前の廊下で初顔合わせとなった。狩野が総合医局から引き連れてきた3名は、郡司、藤山、それに丨丨。

「おいおい、東京の大学の、研究医志望の!」

 昨年、見学に来ていた東京の大学の研究医志望の学生さんの「クシ君」がいた。

「葦原先生、ご無沙汰しております。ローテートパターンGの久斯くしつくる、29歳です。晴れて、こちらで研修させていただくことになりました」

「……ああ、そうか、久斯あれでクシって読むのか」

 事前のローテート表には目を通しておいたつもりだが、「久斯」がこの「クシ」だとは思い至らなかった。

「どうぞ、よろしくお願いいたします」

「いやいや、こちらこそ、よろしくな」

 すでに30歳手前と他の研修医より年を食っているからか、落ち着いたものだった。

「じゃあ、伊野が久斯、狩野が郡司、長野が藤山の指導担当な。で、久斯はこのあと手術な」

 研修医としては徐々に医療の現場に馴染んでいきたいところだろうが、腫瘍は研修医よりも早く成長するかもしれないので、外科は日々、腫瘍をる手術の予定で埋まっている。顔合わせはほどほどに、1年目研修医たちにはさっそく副主任医長トリオらと動いてもらうことにして、解散を告げた。習うより慣れろオン・ザ・ジョブ・トレーニングというやつだ。

 葦原が外科医局で雑用を片付けて、患者入室の連絡を受けて手術部に行くと、既に久斯が伊野の隣りで手洗いをしていた。

「見学に来てからもう一年か。光陰矢の如しだな。無事に卒業して国試も受かったか」

「その節はお世話になりました。今後ともよろしくお願いします」

 去年の総会の日にもこうしていたのを思い出した。

「お前、どこの大学出身?」

 横から伊野がつっけんどんな口調で言った。さっきの顔合わせでは確かに、研修医たちの出身大学や志望診療科などを自己紹介させる時間もなかった。久斯の言う「東京の大学」の医学部と言っても、全部で8つ丨丨国立が2つ(帝大1、公立1)、私立が6つ丨丨もある。出身大学がどこだろうが、研究医志望だろうが、研修指導で差別するわけがないが、ただ、出身大学というのは医者にとってナイーブなプロフィールなので、伊野の言い方もどうかと思った丨丨。

「東京大学です」

「はっ?」

 伊野が横で声を上げた。葦原も多分、同じような声を上げた気がする。

「東京大学医学部です。ご存知ありませんか?」

 訊いた伊野が黙ってしまったので、葦原が答えた。

「答案用紙に自分の名前を書ける人間で、東大の医学部を知らない人間はいないよ。あれ……でも、お前、東京の大学って」

「僕が言いましたっけ」

 昨年見学に来たときにそう言っていなかったか……いや、大和部長だったか?

「東大医学部卒か……それはすごいなあ」

 東大医学部丨丨本邦学歴社会の原点であり、頂点である。医者は学歴に強くて、弱い。この辺では無敵の学歴である七大卒の葦原も腰が砕けてしまったが、すぐに追いかけてきた違和感に支えられて踏ん張った。目の前の人間が東大卒なら、最初の見学に来たときに珍しがってもっと掘り下げたはずである。なぜそうだと気づけなかったのかが気になった。

「お前、東大に入るのに、いったい何浪したんだよ」

 伊野がそう言って、葦原も得心した。帝大医学部卒業生としては年を食いすぎているのだ。久斯の年齢からすると、四浪五浪はした計算になる。帝大医学部に入るには、努力は大前提としても、やはり圧倒的な受験の才能が必要だ。一浪二浪程度ならともかく、それ以上予備校に長くいて合格圏内まで伸びるものだろうか。それとも、例外的な粘り勝ちをしたケースだとでもいうのか。

「僕は浪人してません。現役合格です。人生で足踏みしたことないので」

 謎がまた一つ生まれた。じゃあ、浪人も、それから留年もしていないということか? 

「待て待て、理Ⅲじゃないって言ってなかったか?」

 葦原は思い出した。去年見学に来たときに、「理科Ⅲ類りさんじゃない」と言っていたはずだ。

「はい。理Ⅲじゃないです。僕が入ったのは文科Ⅰ類ブンイチです」

「ブンイチ?」

 謎がさらに深まった。医学部は理科Ⅲ類だし、文科Ⅰ類はたしか、法学部のはずだ。手洗い後の久斯にサージカルガウンを着せている伊野がうさんくさいものを見る目なのも当然だ。

「文系じゃん。医学部は理系だぞ。ああ、あれか、仮面浪人ってやつか?」

 大学に入ってから勉強をしなおして、希望の大学や学部を受験しなおすというものだ。

「いえいえ。東大はまず教養学部に入るんです。2年目の後期になる前に進学振分シンフリってのがあって、所定の条件を満たせばいろんな学部に進めるんです。それで僕は医学部に」

 葦原は伊野に目を向ける。否定してほしかったが、伊野は軽くうなずいた。

「……聞いたことありますよ。理Ⅲは当然、医学部に行くんですよ。でも理科Ⅰ類りいちとか理科Ⅱ類りにからも数人は医学部に移れるらしいです。もっとも、大学に入った後の成績が抜群によくないと無理なので、それはそれで大変だって話です」

「じゃあ、大学入学後も勉強したんだ。でも、文系から医学部って、よくあるのか?」

「僕が史上初みたいですよ」

「自分で言うんだねえ。それじゃ、文系で入ってから医学部に移ろうとしたから、年食ってんのか?」

「いえ。ふつうに在学2年目の後半から医学部に移り、留年せずに卒業しました。僕の年齢のことを気にされているようですが、これは単に、在学中に博士課程に進んだからです」

「……伊野、こいつはなにを言ってるんだ」

 想定外のキーワードの連発に困惑するが、伊野は合点がいったように小さく頷いた。

「MD丨PhDってやつでしょ。俺が大学院の間に共同研究で出入りさせてもらっていた基礎の研究室にもいましたよ、医学部の途中で大学院博士課程に入ったやつ。そこで博士課程4年間を実際に過ごして、研究して論文書いて博士号を取ってから、また医学部に戻って、臨床実習、卒業試験そつし国家試験こくしを経て、医者にもなる……だよな?」

「ええ。伊野先生は七大ですか? 帝大にはありますよね、この制度」

 久斯にそう言われた伊野は返事をしなかったが、葦原はなお腑に落ちない。

「なんでそんなことすんの? 医学部卒業後に大学院に行けばいいじゃん」

 医学部医学科6年を満了するだけでも大変な労力を要するし、ドロップアウトのリスクも少なくない。まして大学院となると、その修了には学位授与に値する研究成果が必要だ。学部のように座学と実習、試験直前に過去問のコピーをかき集めて及第・卒業とはいかない。

「そうでもしないと、みんな医学者じゃなくて医療者になっちゃいますからね」

 久斯にそう言われて、研究・論文活動から縁遠い葦原も耳が痛かった。帝大医学部は実地臨床より研究第一が存在意義のはずだが、七大医学部卒業者のほとんどは基礎(研究)ではなく臨床の道に進む。

「しかし、久斯。お前な、さっきからそういう制度があるって言うけど、だからって文Ⅰから医学部に進んだり、医学部在学中に博士課程に進んだりできるものとは違うだろ」

「はあ。僕はそうしたら、そうできたんです」

 本人にそう言われたら仕方ないが、目の前に、「将来は、東大の文Ⅰに入って、医学部に変更して、途中で大学院で博士号取ってから、医学部卒業して医者になります、えへっ」というやつがいたら、頬をひっぱたいて目を覚まさせるだろう。

「じゃ、お前、もう医学博士なの?」

「はい」

「いま何歳だっけ?」

「28歳です。今年29歳になります。8月生まれです」

 大学医学部の入学試験、期末進級・卒業試験、医師国家試験のいずれも無浪無留無落で医者になるのが25歳になる年で、そこに4年間の大学院博士課程が挟まったとすれば、今年29歳というので勘定は合う丨丨ようやく断片的だった久斯のプロフィールがつながった。久斯の言っていることが事実なら、現役で東大文Ⅰに受かり、在学中に東大医学部に変更し、その間さらに大学院で4年間を過ごして博士号を取り、そして医学部に戻って卒業し、医師免許も取って、今ここで30歳手前の研修医として滅菌ガウンを着終わったわけである。

「じゃあ、理Ⅲじゃないが、正真正銘、東大医学部卒・東大大学院卒ってわけか」

 そこで本当の違和感の正体に気づいた。医者には、医学部以外の学部から転身したものも社会人を経てから医学部に入り直したものもいるから、究極的には目の前の人間が、東大卒だろうが、それが文系学部から医学部への転身だろうが、はたまた、在学中に博士課程を終えていようが、医師国家試験を合格して医師免許を持っているのであれば、問題ではない丨丨。

「つうか、ここになにしにきたの? 東大とか関東で研修すればよかったじゃん」

 そう、久斯がわざわざこんな地方の病院に来たことが解せないのだ。結局のところ、そういう人間がここに来るという必然性がないから、すべての話に現実味がないのだ。こいつは真夏のインフルエンザだ。

「えーっ!? 葦原先生が誘ってくれたから来たんじゃないですか!」

「はーっ!? 俺が誘ったか?」

 記憶にない丨丨いや、見学に来たときに案内をしたのだから、そりゃ、よかったら研修に来てくれ、みたいな話もしただろうが、それはお互いに社交辞令とわかるはずだ。

「そもそも、誘ったからって、来るか? ていうか、他でもいくらでも誘われるだろ、ふつう」

「それはこっちのセリフです」

 久斯は、少し傷ついたような顔をした。どこも研修医確保に躍起のはずだ。東大と名乗ればフリーパスなのではないか。いや丨丨。

「ははーん、お前さん、ひょっとして、この辺の病院見学をしていたときに、他では、東大って言ったんじゃないのか?」

「まあ、訊かれたら答えたと思います丨丨それが?」

「この辺で、東大医学部ですって言ったら、そりゃびっくりされちゃうよ。冷やかしだって思われるだけさ」

「……なるほど」

 その逆もあると考えた。実際、久斯がここの見学に来たときに東大卒(見込み)だと知っていたら、積極的に誘わなかっただろう。地方でも有名な研修病院には全国から研修医が集まるらしいが、市民病院ここはこの辺では有名有力であっても全国的には無名だ。それに、研修医確保のために初期研修医にすら年収1000万円程度を提示する僻地の病院もある一方で、ここは七大卒や他大学卒の地元出身者が来るからと高をくくっていて、給料も目安となる金額(月額30万円程度)しか出さない(と宮田が愚痴っていた)ので、その点でも魅力に乏しい。東大卒、まして医学博士号取得済の研修医さまに来てもらう必然性はない。

「なんで関東じゃなくて、この辺にこだわってたんだっけ」

「去年の見学のときにお話ししたはずですが……研修は地元で専念しようと思ったので」

 そうだ、出身がこの辺りと言っていた。里帰り研修だなんて言って、それに賛同した気もする。しかし、ずっと東京でやってきて、研修後はまた研究医として東大に入るのだろうと考えると、2年間だけここにいても意味はないではないか。いや丨丨。

「ははーん、お前さん、ホームシックになったんか。まるまる10年、眠らない街トーキョーだもんな」

 冗談で言ったつもりが、久斯が無言になったので、図星だったのかと思った。葦原も滅菌ガウンを着て、滅菌手袋をつけて腕組みをすると、いろいろと落ち着いた。去年の見学時点ですでに、久斯が医学博士号という研究者としてのライセンスは持っていたのだと気づいて、研究医志望と言っていたことにも納得できた。

「ま、よろしくな。明日の歓迎会でまたいろいろ聞かせてもらうよ」

 面白いやつだ。好きなところで研修できる現在の制度ならではの闖入者だ。

 手術台の上の患者に滅菌ドレープをかけながら、伊野に言った。

「しかし、伊野、東大医学部卒ってすごいな」

 伊野は、笑うでもなく、答えた。

「別に。文科Ⅰ類ブンイチなら俺でも入れますよ」

 横行結腸切除術丨丨伊野執刀、葦原第一助手、久斯第二助手丨丨は滞りなく終わった。

 翌朝、総合医局を覗くと、検食トレイを前に蝋人形のように固まった久斯がいた。

「おっす。当直明けか、研修初日からおつかれさん」

 研修医もローテート中の診療科常勤医の当直に付いて夜間当直の訓練をするが、入院患者用の食事を検食するのも仕事だ。当直日の夕食、当直明けの朝食を担当する。

「どうだ、大変だったか」

「ええ。大変勉強になりました……クマに餌をやってはいけないんです」

「おいおい、寝ぼけてるのか?」

「……具合が悪いから点滴してくれって救急外来に来た患者さんに、僕が良かれと思って点滴の指示を出したら、伊野先生にそう叱られたんです……お前は、人里に降りてきたクマに餌をやったんだぞって。あの患者は今後も、具合が悪いって言って点滴してもらいにクソ忙しい三次救急病院にやって来て、医療スタッフと他の患者に迷惑をかけるんだぞって……」

「それはまた、たいそうなたとえだな」

 伊野の言いたいことはわかる。救急外来で点滴1本入れて治る病気はない。点滴中の安静とわずかな脱水補正で気分がよくなるだけで、風俗のサービスのようなものだ。社会インフラである救急外来としては妥当な対応ではない。

「そういうのが学べて一歩前進だな。しかし、つらそうだな」

「眠いのは我慢できますが、腹が減っているのはどうしようもないです。検食だと全く足りない。どうしたものか、売店はまだ開いてませんし……」

「そっちか丨丨」

 話していると、伊野が総合医局に来た。葦原に挨拶して、久斯に言う。

「ブンイチ、いつまで食ってんだ。いくぞ」

 伊野はどうやら、東大文科Ⅰ類ブンイチ入学から東大医学部卒業の久斯をそう呼んでいるようだ。

「へい」

 久斯は立ち上がって、フラフラと出て行った。当直明けも普通に仕事だ。朝7時から翌19時までなら連続36時間勤務、これが日本の医療だ。東大卒だろうが医学博士だろうが研究医志望だろうが関係ない。お前は医者になったんだ。がんばれがんばれ丨丨葦原は久斯の残していった検食トレイを片付けてやった。

 その日の夜、かに料理専門店『かにむね』で外科の研修医歓迎会が行われた。1年目研修医を交えて、新年度ではじめての飲み会だ。

「東大医学部卒・東大大学院修了・当直明けの久斯です。仙台出身の金メダリストにあやかって、僕も医者として金メダルを取れるようにがんばりまーす!」

 どこかで聞いたような久斯の挨拶で盛り上がっている中、葦原は藤堂先生に昨年度の市民病院からの入局者ゼロの件で引き続きカミナリを落とされていた。ある程度して、助け舟を出しに来てくれた押切副部長に雷神の矛先が向かったのを幸いと、大和部長の席に避難した。

「おつとめご苦労さん」

「最近この調子でして……しかし、手術以外でカミナリなんて珍しいですよね」

 大和部長はニヤリとして言った。

「そりゃ、藤堂先生ももうひと頑張りしないと。市民病院ここだと副院長の次がないからな」

 七刄会では市民病院の副院長ポストを抑えているが、病院長ポストは持っていない。それは七州大学医学部の教授退官後の天下りポストになっていて、たとえば現病院長は七大医学部免疫内科学講座の前教授だ。天下りといっても、病院長は病院で問題が起こった時には矢面に立たされる立場なので、中央省庁官僚諸氏のそれのような旨みはないはずだが、大病院の病院長という肩書を厭うものはいないようだ。

「ここだけの話だけれどな……今度、七電しちでん病院の院長の席が空くんだよ。ちょうど、藤堂先生の定年のタイミングだ。とくれば、医局からの覚えがめでたいほうがいいだろう。入局者ゼロの病院の副院長なんて汚名は返上しないとな」

 七州電力病院は七州一の大企業である七州電力が社員向け福利厚生の一環として設立した病院なので、病院も豪華だし、待遇もずば抜けていると聞く。しかも、あまり忙しくはないとあって、天国パラダイス病院と噂されている。定年後にのんびりと管理職をするのにはうってつけだろう。そこの病院長ポストは七刄会の指定席だ。七刄会医局員は香盤表人事で60歳定年までは良くも悪くも上げ膳据え膳だし、定年後もどこかそれなりのポストを医局が斡旋してくれるが、そういう再就職先の中で望ましいポストを得たいのであれば、それなりの貢献が必要というのは、うなずける話だった。

「でも……藤堂先生クラスで、他に競争相手っていますかね?」

「災害医療センターからは今年2人入局したそうだ。七大卒が一人、私大卒が一人」

 大和先生の話で合点した。葦原の学年の専門班が中部班と血管班であるように、藤堂先生の学年も中部班と血管班(のそれぞれ前身に当たる専門班)である。藤堂先生はAランク病院副院長、つまり中部班Aキャリアだが、同学年には……。

「風神伏見ですね」

 伏見先生は血管班Aキャリアで、七大病院診療助教授から学外関連病院の幹部職(副部長・部長・副院長)を経て、現在は血管班市内大規模Aランク病院、旧国立病院の七州災害医療センターの副院長だ。葦原は、七電病院うんぬんよりも、伏見先生の話で腑に落ちた。この二人は七大外科学教室が2講座に分かれていた時代のほぼ最後の世代で、藤堂先生ら腹部腫瘍外科学講座は伝統を、伏見先生ら腹部総合外科学講座は先進をモットーに、それぞれが七刄会本流であることを誇って譲らずのライバルとして切磋琢磨し、一時代を築いてきたのだ。

「自分はともかくライバルがって考えると、穏やかではいられないということですか」

 納得はできたが少し寂しくもあった。葦原が院卒後にこの市民病院に学外出向した際の外科部長は、腹腔鏡下胆嚢摘出術ラパタンの名手として鳴らしていた藤堂先生だった。藤堂先生はおっかないだけではなかった。いくらでも手術をやらせてくれた。手術をやらせるというのが口で言うほど簡単ではないのは、部下ができてみて初めて分かる。腹腔鏡のような手取り足取りの指導もままならない、ましてシミュレータも満足にない時代に、藤堂先生は部下には思う存分(カミナリを鳴らしながらでも)やらせてくれる上司だった。古き良き外科医を体現する藤堂先生がいま、定年後を見据えているのであれば、少しでも貢献したい。

「改めて、全力を尽くします」

 そう、決意を新たにしたが、昨年度の宮田流出がやはり痛かった。七大卒で外科志望、やる気と能力のある人材が東京に流出してしまったのだ。若手が大学に戻らずに我田引水なキャリアを求めるという悪しき前例にならないとよいのだが……。

「丨丨そうだ、今日は平田先生も誘ったんですよ。残念ながらお忙しいようでご参加いただけなかったんですが」

 現在、救急部医長の平田先生は、葦原が実地修練医そして学外出向医長時代には外科に所属していて、こういう飲み会にももちろん参加していた。昨年は参加していなかったので、今年は誘ってみたのだったが、恐縮されつつ断られてしまった。

「そりゃ、来ないよ」

 大和部長はまた、ニヤリとして言った。

「平田先生は、藤堂先生に言われて、もうずっと前から大学院に行かされてるんだよ。社会人大学院ってやつだ」

「えっ、そうなんですか? うちに入局したんですか?」

「いや、七刄会うちじゃないところだよ。藤堂先生がここから石巻に移る時に医科研に預けていったんだ。それが、藤堂先生があっちで6年間過ごして戻ってきても、まだ大学院を卒業していないんじゃあ、平田先生も顔向けできないだろ」

 医科研こと、七州大学学際医科学研究所の各部署ユニットは大学院講座として機能するので、大学院生として入って研究して学位も取得できる。葦原の大学院生時代の研究指導教官だった吉良先生がいるように、七刄会は医科研に支店ともいうべき関連部署を3つ持っていて、講座スタッフのポストとして使われているが、平田先生が入ったのはそれらではないようだ。

「平田先生は学位がほしくなったんですか? 言っちゃなんですけど、いまさら」

「ほら、博士号がないと役職もつけられないだろ」

 自治体病院の多くは、役職となる職位(主任医長以上)には博士号の学位所持を暗黙の了解として求めているとは聞いたことがあった。葦原もここに赴任する際の書類手続きで学位証明書のコピーを大学医局秘書を通じて送っていた。

「やっぱり、そういうルールってあったんですね。役職って、外科の?」

「まさか。他の部署だよ。救急部を診療科に格上げして、専任部長職を用意するって話は前からあるんだ」

「へー、救急部が。ついに、ですか」

 せんだい市民病院は三次救急医療施設であることが売りの一つではあるが、それを担う救急部というのは実際のところ、救急医療専門・専任医師による独立した診療科ではなく、中央診療部門の一部署として、各診療科が当番医師を出し合って運営されてきたに過ぎない。幸いなことに、各診療科の大学医局もここが救急病院であるとわかって戦力となる医者を派遣しているので、大過なく日々の救急診療を営んでいる丨丨ようには見えるが、それでも当直医と他科オンコール当番医とで、あるいは診療科同士とで連携がうまくいかないせいで、薄氷を踏んだり(踏み割ったり)するような事例も見られるし、そういうケースを巡って医局会などでの小競り合いも絶えない。そういう議論の果てに生み出されてしまった、救急医療本位とは言えないような、発言力のあるいくつかの診療科のやりやすさの公約数として割り出されたようなローカルルールの数々に、窮屈さを感じることもままある(外科もそういうルールを押し付ける側だろうから偉そうには言えないが)丨丨。

 せっかくの三次救急医療施設なのだから、各診療科が持っているポテンシャルを存分に引き出した公倍数的な救急医療を主導・推進できるような専任者がいてくれれば丨丨葦原は昔からそう思っていた。だから、救急部が診療科に格上げされて、人事や体制などが各診療科から独立して、機能的かつ責任のある部署として運営されるというのであれば、まさに願ったり叶ったりであり、大いに期待したいところだ。

「やっぱり、司令官コマンダーみたいな人がいてほしいですよね。とにかく、救急外来は揉めごとが多いですから……あっ、それじゃあ、平田先生が救急部の部長になるんですか?」

「そんな大げさなものじゃないさ。でも、ポストができたときに備えて、どこの馬の骨とも知れない自称救急専門家に横取りされずに済むように、学位をとっておいてくれっていう藤堂先生の温情だろうな。ただ、平田先生の白衣のポケットにはいつも書きかけの論文が入っているって噂だ。いつになったら日の目を見るのやら」

「まあ、社会人大学院生って大変って聞きますしね」

 社会人大学院生というのは普通に働きながら、その合間に所属する大学院の研究室に出入りして研究をし、学位取得を目指す制度である。大学院で研究に専念しても学位取得というのは大仕事だから、それが大学院から離れた場所で医者として働きながら時間を作ってとなれば並大抵の苦労ではない。4年を超えて在学するのも当然だ丨丨失礼ながら、万年ヒラ医長の万年論文という言葉が浮かんだ。

「医局に属していないと、学位もポストも難しいよなあ」

 大和先生の言うとおりだが、この辺の医者はほとんど大学医局に属し、ニアリーイコールで博士号の学位を持っている。その逆で、平田先生は医局に属さず、ニアリーイコールで学位も持っていないはずだ。そう考えると、医者は医局という神殿に労役その他、捧げるものは多いが、振り返ってみると、知らず知らずのうちにある程度は還元されているものなのだとも思った。こういうのを知らずに、入局しないで後期研修しようとする若手のことを考えると、年寄りとしてはため息が出てしまうのであった……。

 二次会に移り、少しだけ色っぽいお店になだれ込んだところで、檜山に声をかけた。

「檜山、またよろしくな」

「こちらこそ、よろしくおねがいします」

 檜山は2年目でまた外科に来てくれた。貴重な外科志望者であり、七大卒だ。出身大学や志望科にかかわらずに今年は外科への勧誘を積極的にしていくつもりだが、なにはさておき、外科志望の若手医師を逃さないようにしなければならない。

「2年目にはいろいろ手術も処置もやらせるからよ、頼んだぜ。なんか、希望とか相談とかあったら、遠慮せずに言ってくれよ」

「はい」

 1年目研修医の郡司や藤山たちとも話した後、押切副部長とも話した。

「葦原、今度の学会の件だが丨丨」

 今年の日本肝胆膵外科医学会総会・学術集会の件だ丨丨今年は外神総裁を会頭として、ご当地の仙台国際コンベンションセンターで開催されるのだ。大学では以前からその準備を進めていて、特に中部班が主軸となって学術集会のプログラムや企画を練っていた。葦原のような学外スタッフは企画運営事務局からは外れてしまうが、学術集会中の演題発表進行役や会場責任者など役割は多い。

「スライド作りは終わってますので、チェックお願いします」

 押切先生はその学術集会のメインイベントの一つでシンポジストを務め、大学病院時代のPDの手術データを元にした発表をする予定だ。

「全国のやつらをびっくりさせてやろうな」

 押切先生が言うように、七刄会外科中部班の手術成績は本邦最高峰であり、常に耳目を集めている丨丨こういった我々七刄会の魅力を若手医師に理解してもらえれば、きっと入局もしてもらえるはずなのだ。

 店内を見渡すと、東大医学部卒・東大大学院修了・当直明けの久斯が酔い潰れていた。解散の段となっても起きる気配はまったくなく、送ろうにも誰もまだ久斯の住所を知らなかった。同期の郡司が今日は自分の院内療にまで連れて行ってくれるということで、タクシーに乗せて帰らせた。

 翌朝、久斯も含めて研修医は皆、病棟回診には遅刻しなかったが、だらしや生気というものがまるでなかったのは患者に失礼だったので、葦原は厳しく咎めた。

 4月末丨丨。

 夕方、他院からの紹介患者の引き受けに葦原は久斯と救急外来に赴いていた。患者を待っていると、帰りがけの平田先生を見かけたので、久斯に挨拶をさせて、平田先生を紹介した。

「……で、もとは外科におられたんだが、いまは初期研修医のために救急部スタッフになられたんだ。外科ローテートのあとは救急部だろ、ちゃんと勉強するんだぞ」

 平田先生は、東大医学部卒の久斯のことは知っていたようだが、それで長話をすることもなく、脱いだ白衣を手に持ってスタッフルームの方に去った。もう、終業時刻だった。

 患者が来るまではまだ時間があり、久斯は救急外来をいろいろと見て回っていたが、なにやら書類を持って戻ってきた。

「落とし物ですかね」

 葦原が受け取ったそれは、筒状に丸まっていた10枚程度のコピー用紙の束だった。そうして白衣のポケットにでも入っていたようだ。失敬とは思いつつ、葦原は内容を少し見てみた。タイトルや著者名は書いていなかったが、一見してそれが論文であることがわかった。急性虫垂炎で診断後、すぐに手術をしてしまうのとできるだけ保存的に経過を観るのとで、その後の転帰を比べる後方視的研究のようだった。そこで合点がいった。

「多分、これ、平田先生の論文だよ」

「論文って、日本語じゃないですか」

 久斯がうさんくさそうに言った。

「和文も論文だろ」

 とかばいはしたが、この業界で「論文」というのは英語で書かれたもののことである。もっというと、それを学術雑誌に投稿サブミットして、査読レビューされて、掲載に値すると受理アクセプトされて、実際に出版パブリッシュ(された雑誌に掲載)されたものだ。和文(日本語論文)も、それを受け付けてくれる学術雑誌での掲載にあたっては同様のプロセスを必要とするし、忙しい臨床医が物を知るのには手っ取り早くて役に立つのだが、研究者の業績としてはカウントされないのが実情だ。

「和文どうこうもそうですが、中身がしっちゃかめっちゃかじゃないですか」

「そこまでは見てないよ」

「平田先生は大学院は出られてるんですよね?」

「いや、今がそうだって聞いた。社会人大学院生だとか」

「なるほど……納得です。だからですね、これは」

 久斯はため息を付いた。

「社会人大学院って、なんなんでしょうねえ」

「なんなんでしょうって、勤務医に大学院で研究をさせる制度だろう」

 医者にとっての社会人大学院制度とは、病院で勤務を続けながら、研究日などを設けて、大学院の研究室に出入りして研究を行うものだ。

「博士号を取らせることだけが目的の制度ですよね」

「勤務医にも博士号取得に値する研究をさせてやれる制度ってところだろう」

 そもそも、大学院生はみな生活度外視で研究をして、博士号、つまりは学者としてのライセンスを得るものだが、臨床医学の業界では、この社会人大学院生制度で医者が働きながら学位を取得するというのもさほど珍しくはない。当然苦労もするだろうし、中には目を見張る業績もあるだろう。だが、たいていは研究者人生入門としての博士号取得というより、医者の経歴の後付けの箔付けに使われることのほうが多い。大和部長も確か、平田先生に病院役職をつけるために医科研の大学院に行かせたという話をしていた。

「僕は否定派なんです、それ。大学院は研究者の研修所なんですよ。片手間、腰掛けでやられては困りますよ。右も左も分からないのに、社会人研修医とか言って、週1回だけ研修に来る研修医がいたら腹立つでしょう? 実際、これは幽霊大学院生が放置されているパターンです。こんなんじゃ、いつまでたっても受理アクセプトされませんし、学位も取れませんよ。研究って、指導されても成功するとは限りませんが、指導されないと必ず失敗するんですよ」

「俺に言うなよ。それに、うちの講座じゃないよ。文句があるなら所属先に言ってくれ」 

 すでに博士課程4年を終えているからか、久斯は辛辣だった。葦原だって経験者だからわかる。大学院4年間、実際には七刄会では大学院2年目から研究に入るので、実質3年間しかない中で、研究テーマを決め、それを実証するための実験系を確立して、データを出し、それを論文にまとめ上げて投稿し、修正リバイズを経て、受理アクセプトされるまでを考えると、大学院生の主体性に任せている余裕はない。だから、実際は研究指導教官に言われるままに大学院生は実験を徹底的にこなすだけだ。それでも、未知の領域に爪を伸ばす以上、予定通りとはいかず、卒業条件が揃うのはたいていは学位審査申請期限のギリギリである。ただ、医局員には大学院修了後に関連病院で働いてもらわないと困るので、それに間に合うようにと指導教官も必死で大学院生に研究をまとめさせて、卒業させているのが実情だ。社会人として働きながらの研究となれば、4年間で卒業というのはまずないだろうし、七刄会外科医の大事なキャリアの1つである博士号取得を通信教育のようにして取らせてよいものでもないので、七刄会では社会人大学院生は取らない。

「みんな、それぞれ事情があるんだよ。研究志向リサーチマインド定年タイムリミットなんてない。お前さんみたいに、社会に出る前どころか、大学を卒業する前に博士号を取得するなんてのは例外中の例外だ。自分の経験だけで社会や人を評価するものじゃない」

 葦原がそう言うと、数秒程度のタイムラグを置いて、久斯はうなずいた。

「わかりました。これは僕が平田先生にお返しします」

 久斯はそう言って、論文らしき書類をまた筒のように丸めた。

「ちゃんと返すんだぞ、久斯

 そうこうするうちに目当ての患者が搬送されてきたので、仕事に戻った。引き継ぎし、検査をした後、外科入院の手続きを進めたが、傍らの久斯はむくれていた。

「アッペじゃないじゃないですか」

 この患者については実は、「右下腹部痛、虫垂炎アッペ疑い」との紹介の連絡が入っていて、久斯の研修医必修カリキュラムである「執刀1例」にちょうどよいと受け入れたのだったが、当てが外れたようだ。この患者は念のため経過観察入院とするが、おそらく数日で退院できるだろう。

「テキトーな紹介でしたね、全く」

 紹介状をひらひらさせながら久斯が言った。

「こら。急性腹症でアッペを疑うのは定石だ。むしろ、アッペを否定することのほうが難しい」

 紹介元をわるく言う癖がついてはいけないから、葦原はたしなめた。いざとなったら経過観察入院でも精密検査でも緊急手術でもやれる大病院と、そうはいかない小病院とでは、患者を目の前にして取るべき対応は自ずと異なる。ヘタに紹介元で粘られた挙げ句に、状態が良くならないからと夜中に紹介されてくるよりはマシだと思わないといけないのだ。

「後医は名医ってのを覚えておけ」

 病気の診断に関して言えば、あとから診た医者のほうがやりやすいのだ。

「ちぇっ丨丨手術になると思って、今日の合コン、断ったんですよ。まさに断腸の思いで。外科だけに」

「研修開始1ヶ月目で元気なことだな。今からでも間に合うんじゃないのか」

「イヤですよ。緊急オペで合コンドタキャンってのが、かっこよかったんじゃないですか。どの面下げて途中参加できるんですか」

「……お前はちょっと、外科をなめてるよな」

 自分がその社会人研修医なのではないかと言ってやろうとした矢先に、病棟の準備ができたとの連絡が入ったので、葦原は久斯と車椅子に乗せた患者とで病棟に向かった。

 せんだい市民病院での新しい1年は、なにやら騒々しく始まっていた。

(続)

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